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36:彼女の世界

『9月2日。しんがっきがはじて、ミネルバはいそがしい。べべがじをおしえてくた』
 可愛らしい字はたどたどしく、スペルの間違いも多い。それが続くと少し日付が開き、しゃんとした字になって、寝込んでいたことについてが書かれていた。

『ずっと寝込んでいたみたい。思い出した、僕はハリー=ポッター。ダンブルドア先生の死をどうやら本人に伝えてはだめらしい』
 突然の変わりように少し驚くも、20歳になってもまだ幼い字なのはそれはそれで変だ、とスネイプは読み進める。最初よりもはるかに読みやすくなった字は……今のハリエットの字に少し近い。杖を手に入れたことと、その帰りに黒髪に緑の瞳という事で攫われかけたことが書いてある。

 そして正体を隠すためにとダンブルドアに性別を変える魔法薬がないかを聞いたと。そう、思い返せばあの少女を抱きかかえた翌日にダンブルドアから依頼されたのだ。見た目と性別を変える魔法薬が欲しいと。ただ、まだ対象が子供のため、成長を妨げないよう、恒久的なものではなく、飲むことで効果が一定時間出る様なもの欲しいという無茶ぶりによくぞ答えたものだと今なら思う。
 おかげで、ヘンリーに会うことができた。

 詳しいことは念のために10年計画帳に書こう、とそんなことが書いてあって本棚を見る。ひときわ分厚くなってしまっている本がそれなのかもしれない。開け方に杖が必要とメモが残されていて……スネイプはハリエットの杖を右手で持ち、そっと本の表紙に触れた。またブレスレットが光った気がして、鍵のついていた本がパカリと開く。

 10年計画帳には思い出した時に書いたという風な走り書きがいくつもあって、終わった事にチェックが入っている。そして何度も書いてあるのが“スネイプを助ける方法”だ。傷の治療がいいのか、毒を取り除いた方がいいのか。彼女が必死になっている様子が目に浮かび、そっとその字に触れる。
 彼女がいつ、この計画を思いついたのか。


 9歳になったところであの日を、記憶を頼りにめくって……見つけた。
『アニメーガスを習得したおかげで、スネイプに会えた。まだ若くて元気そうで……。触れたことにびっくりして逃げてしまったけども大丈夫だったかな。また、会いに行ってみようかな。先生の手、大きくて暖かかった』
 初めて出会い、そして触れた短い毛の感触。

『あそこはスネイプが薬草を育てているところなのかな。あまり見覚えがないけど。今日はスネイプのそばに行くことができた。それにしてもあの匂いは何だったんだろう。おもわずスネイプの手を嗅いでしまったけど……。石鹸かと思ったけどどうやらフレッドたちの悪戯グッズみたいだし、わからないや。でも本当にスネイプの手が落ち着くどうしてだろう。本当は優しいって知っているから……かな?』
 わからないや、という内容で書かれていて……スネイプはあの懐かしい日を思い出してそっと口角を上げた。

『今日、例の薬ができたという事で飲んでみて……びっくりした。お母さんの赤毛があるだけでずいぶんと印象が変わる。びっくりしていると更にびっくりすることに、母さんがこの姿の名前をくれた。ヘンリー=マクゴナガル。ハリエットと同じハリーを愛称に持つ名前。ハリーのままでいいといわれた気がして、とてもうれしい』
 お母さんによく似ている気がして嬉しかった、と書いてあるハリエットに幼いヘンリーを思い浮かべる。きっと、リリーによく似ていただろう。あのキラキラした目で……自分を見つめてきたならば。

『フレッドたちの罠に引っかかってしまった。あれはもしかすると携帯沼の試作品?まだ一年生のはずなのに、二人はいつからつくり始めたんだか……。困っていたらまた先生が助けてくれた。先生のそばにいるというだけで落ち着いて……。もう最近ずっとスネイプのことばかり考えている。まさかスネイプのことが好きなんじゃ……。でもだめだ。スネイプはお母さんのことを愛している。それは揺るがないことなのに。でも、ただ勝手に好きだというのであれば……いいかな、お母さん』

 ぺらりとめくればいつもは割と短めの日記のはずが、今回はやけに多い。あの罠にはまった時か、と懐かしみ、ハリエットの考えにまだ胸が苦しくなる。彼女は……どうやらこの頃から自分に想いを寄せていたらしい。ハリエットの記憶通り20歳であの磔の呪いを受けたのであれば……確かにほとんど同じ年だ。


 そして彼は無意識なのかあるいは一応自覚していたのか。死の間際まで自分のことを考えているほどに、彼の心にセブルス=スネイプの死は重くのしかかっていた。それがだんだんと変わってきていてもおかしくはない。

 やがてホグワーツにやってきて……ドラコと会ったことが書いてある。自分が彼女を見ていたことも書いてあって……スリザリンになったことを楽しんでいるようだ。そしてそこには必ず自分のことについてもわずかに書いてあった。

『今日も……睨まれてしまった。わかっている。父さんに似た目を彼は本能的といえばいいのか、心の底から憎んだ目と同じなのだから。それと、この赤毛と……わずかな面影がお母さんを思い出しているみたいで、つらい』

『今日も自習のお願いが言えなかった』

『石のベンチの上で座っていたら突然スネイプに声を掛けられて、心臓が飛び出したかと思った。なんとなくそのままの勢いで自習のお願いをしてしまった。自分でもびっくり!なんとなくアニメーガスになって戻ったら……先生は撫でてくれた。あぁやっぱり先生の手は落ち着く』


 純粋な想いがつづられた日記にはハリエットが時折苦しんでいることに気が付いた。好きな相手が他に好きだという相手がいることに、その相手を超えることはできないと苦悩を時折吐き出す。さらに進めていくとクリスマスの日付が書いてある。みぞの鏡を見つけたことと、そこに写る死んだ人々のこと。午後は、と書いてある下に大きな字で書きなぐってあったのを見てスネイプは甘酸っぱいような思いが胸を満たした。

『キスしちゃった!』
 彼女の字は本当に照れているようで、急いでめくったのか次のページはよれよれで書きにくそうだ。そうか、目を覚ましていたのか、と彼女との初めての口づけを思い出し、スネイプは大きく息を吐いた。それからは書いている途中で自分のことを書こうとして……途端にふにゃふにゃとした字になって慌てて誤魔化す様に強引に日記をしめている。

 時折爆発したかのようにはずかしいだの、好きすぎてどうしようだの……感情があふれているときもある。確かこのころは自習を見て……出来がいいと思わずあの唇に触れてしまっていた。だから思い出したハリエットが恥ずかしさと嬉しさでごちゃごちゃ書いていたのだろう。

 どれほど彼女が自分を想っていたのか。彼女は自分でもわかっていないようで、僕は男だったのにどうしてだろうかと今の性とかつての性での差異に不思議がっているようでもある。
 それでもなお、ハリエットはスネイプへの想いを書き綴り……でも先生の一番にはなれないとぽつりと書いてあることもあった。


 ドビーが時折食事を持ってきて、ポンフリーやマクゴナガルにもはや介護といっても過言ではない見守りを得て、スネイプは開いている時間にハリエットの遺した痕跡をたどる。
 そして見つけたのはあのクリスマスの晩から久々に書いたであろう日記。

『初めて先生と一つになった夜。先生は寝言でお母さんを……リリーの名を呼んでいた。愛していると。やっぱりお母さんにはかなわないや。でもやっと見つけた。飛んでいる鳥を見て、どうして先生の喉の傷を治すことばかり考えていたんだろうって。先生の体に傷をつけるなんてどうして。幸い、何度も悪夢を見るほどに先生のあの日の記憶は鮮明だ。ペンシーブさえあれば』

 書いてあることが理解できず、スネイプはあの夜のことを思いだそうとする。だが、寝言など記憶にあるわけがない。だが本心からハリエットを愛している。だから考えられるのは……リリーに愛を伝え、だけれども君の娘も愛している。愛してしまったことを許してほしい。そんな類の言葉だろう。
 あの次の日からハリエットは決意してしまったのだ。死にゆくスネイプの身代わりとなることを。

『そう決意したらなんだか心が軽くなって、パトローナムを成功させることができた。アスクレピアンスネーク。かのアスクレピオスの杖に巻き付いている蛇、ヒュギアイアの杯に巻き付いた蛇という説もある蛇だった。マグルの医学の象徴であり、薬学の象徴であるそれらに共通した蛇なのはきっと、魔法薬学のエキスパートである先生が好きだからだ。毒もなく牙も短い細く長い蛇は決して戦いには向いていない。けれども、それでいい。もう先生に戦ってほしくない。傍にいてくれるだけで、私は強くなれるから』

 珍しく次のページにも続いているそれを読み、スネイプは目を見張った。ハリエットにとってアスクレピアンスネーク……クスシヘビとも呼ばれている蛇は象徴であり、自身を守るべき守護霊ではないようだ。その理由が優しすぎて、スネイプは言葉を詰まらせた。

 スネイプを守ることを決意した彼女は、スネイプを反映させた守護霊を戦わせるつもりはないという。代わりに彼女が戦うというのか、とスネイプは消えかけていたあの蛇を思い返す。きっと彼女と別れそして記憶を失っている間、彼女を支え続けたのはあの蛇なのだろう。

 それからは時折体を交えたと思うその翌日は他愛もない話を書き綴った後に、ふわふわとした内容のことが続けられていた。ハリエットが嬉しくて仕方がなかったのだと、そう思わせる内容には戒めの様に夢はいつか覚めるのだから今だけは、という一文が添えられていた。


 そしてあの運命の日。ハリエットの日記はしばらくかかれていなかったようで日付に間が空いている。どれだけ彼女が傷つき、そして一生懸命自分との絆を断ち切ろうと必死だったのか。ようやく書かれた内容も時計壊れちゃった、とポツンと書かれている言葉が胸に刺さる。
 時計。それを思い、ドビーに頼んであの鍵のついたサイドキャビネットを持ってくるように言い、時計を取り出した。合言葉は相変わらずわからない。けれども……リリーという字にハリエットの記憶を思い起こし……。

「永久に」
 とつぶやいた。ギチギチという音が聞こえ、別の文字が浮かぶ。単語だけが見えるそれを見て、ハリエットが何を書いたのかを考える。

「生きる……ありがとう。あぁ、そういう事か」
 “生きていてくれてありがとう”
 ハリエットはきっと大戦後にこのメッセージが出るようにしたかったのだろう。彼女にとって、スネイプが生きていることが最も大事なことだったのだから。スネイプはハリエットの机に置かれた壊れた腕時計を手に取る。この蓋の中に……隠してもらった言葉。
“共に歳を重ねよう”
 彼女と共に、時を刻む時計と共に。そう願って刻んだはずを自らその秒針を止めるなど滑稽すぎることだった。


 日記は近年になるにつて、短く、そして書いた日も減ってきた。彼女が眠ってしまっている時間も多くなっていたのだからそのせいだろう。書いている途中に眠くなってしまったのか、字が崩れて最後の単語が日記を割るように線が引かれていた。
 だんだんと彼女がこの世界から希薄になってきていたような気がして、ブレスレットをなくした記述からスネイプはもうこれ以上はと日記を閉じた。気が付けば……もうすぐ6月になろうとしている。
 彼女の日記を読むだけに生きていたような気がして、だけれども彼女が生かした命を無下にすることもできない。騎士団員はあれから姿を見せることもなかった。マクゴナガルがここに隠したのもあるのだろうが、ハリエットのことを知りたいと、彼女の日記を読みふけるスネイプをそっとしておきたかったのかもしれない。




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