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32:至高の笑みは…

 一切の音が耳から消え、色彩も全てが失われる。どうやって彼女のそばに膝をついたのか……一切覚えがなくて、血だまりについた膝がジワリと暖かなものに濡れていく。すっかり元に戻った少女の喉は裂かれていて、黒いものが流れている。治療をしなければと思うのに杖は彼女の手元にある。

 空気がまともに取り込めないのだろう、泡のようなものが喉に見える。包帯がないために見える左目は閉じていて……右目だけが傍らにいるスネイプに向けられる。

 その瞳は色彩のない世界でただ一つ、新緑の瞳があの美しいスフェーンの様に輝いていた。虚ろな顔をスネイプに向け……何とか見ようと目元に力を込めているのが見えて思わず顔を近づけて覗き込んだ。

 ふと、気が付けばスネイプの喉元に震える手が触れて……スネイプの喉仏あたりを探る。触れるか否かのような、微かなそれにスネイプが動けずにいるとハリエットはこれ以上ないほどに、スネイプが今までに見た、どの美しいものも霞むほどの美しい顔で嬉しそうに笑った。

 あぁ、すべて、すべて終わったのだな、とようやく音と色彩が戻ってきて、スネイプはハリエットの手を握ろうと、愛しているのだと伝えるために一呼吸止めていた息を吸う。

 ぱちん、とシャボン玉がはじける様な音ともに目の前から愛おしい姿が消える。何が起きたのかわからず、スネイプは力なくそこ場に広がる黒衣を見下ろした。濡れていたはずの膝は乾き、部屋を染めた赤もない。ただ、そこに死の匂いだけが残されていて、スネイプの目が震える。彼女の頭があったそこに触れればまだ暖かく、血が流れたはずの床にも……まだぬくもりがある。
 なのに、彼女はいない。

 反射的にクルミの杖を掴んで握ると、あったはずのミサンガがわずかな灰を落として消える。杖は誰の忠誠も持っていない気がして、スネイプは喉元で息が出ることも入ることもできずに蠢くのを自覚した。

 だがそれをどうにかするべきかを忘れてしまった。身代わりとなった彼女はどうやって呼吸をしていたのだろうか。彼女の隣にいた自分はどんな風に生きていたのか。

 愚か者が、とため息を吐くようなそんな声が聞こえた気がして……スネイプはクルミの杖を握り締めてその場に倒れこむ。
 彼女の代わりに生きたとして、どう生きろというのか。この一年……生徒のため、ハリエットのため……酷使し続けた体はぷつりと糸が切れて……眠っていく。


 そこに一人の女性がやってくると杖を振って男を小さな猫に変えてその場を去る。変化しなかった杖を抱え込んだ猫を見下ろし、隠された寝台にそっと置くと女性は魔法を解いた。

 ぱたん、と扉を閉めたマクゴナガルはリビングとして使っていた部屋を見て、花瓶に生けられたスズランの花束を前に顔を覆い、力なく座り込んだ。その手には愛娘の手紙と、いつ撮ったのか……写真が握られていた。
 クィレルを殺し、様々な命を自分の価値観で選択し、身勝手に諦めた自分は白は着られないと、余計な一言と共に封入されていた写真。一人の若い女性が、ハリエットが、淡いグリーンのウェディングドレスを身にまとい、ヴェールを上げた顔で嬉しそうに笑っている。みてみて、とひらひらと回って見せるハリエットはどの花嫁よりも嬉しそうに笑い、足りないスペースを埋めるように動く。

「あなたは意味を間違えていますよ、ハリエット」
 学校の立て直しのため、みなの喜ぶそれを邪魔しないため、ほんの少しだけ、と目を閉じたマクゴナガルは嗚咽を噛み殺す。いまだけは、と一人の母として、涙を流した。





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