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5:悪夢のはざまにて

 暗い世界の中、誰かの声が静かに響く。
「*******」
“何を言っているのかあいまいで、はっきり聞こえない”
「ハ*****」
“女性の声だ。あぁそうだ、大切な女性。彼女にまだ伝えていないのに。彼女?”
「*リー」
“そうだ、かつての……。かつて?あれ?”
「戻ってきてハリー」
“まだ、まだ僕はやることがあるんだ。ごめん、僕の****。僕はまだ……まだ?”


 ぎゅっと引っ張られ、ぐるぐると回り……耳の奥がキーンと音を立て始める。ぐるぐると音が回って……。全身が痛みに貫かれる。
「ハリエット」
 深い声に涙が出そうになり、ハリエットは小さく、先生、と唇を動かした。先生。そう呼ぶ資格はもうないというのに。

 先生。名前は……どうしても呼ぶことができない。セブ、そう呼ぶ母の顔と、呼ばれる先生の顔が……忘れられない。かつて、大嫌いで仕方がなく、先生とつけることを嫌がった。今は逆に先生、と彼を示す代名詞になった。

 先生。ぎゅっと抱きしめてほしい。もう大丈夫だと。意識を失う瞬間、手を握ってくれたみたいに……。そう思って手を見れば握られた感触がないことに気が付き、あれは幻だったのか、と心が落ち込む。

 先生。二度と姿を見せるなと言われたのに、会いに行ってごめんなさい。そう言いたかったのに、ごめんなさいという言葉しか出なかった。

 柔らかな風を頬に受け、ハリエットはそっと目を開いた。どこにいるのかわからず、ただ甘いような香りに心が和らいでいく。
「あぁ、目を覚ましましたか?」
 聞こえた声に体を起こそうとしたハリエットは、全身を襲う痛みに思わず呻くしかできない。慌ててやってきた手に抑えられ、ハリエットは母さんと唇を動かした。本当によかった、と微笑むマクゴナガルに戻ってきたんだ、とハリエットは瞬きと共に涙をこぼした。

 目覚めから体を起こすまでに一週間がかかり、ハリエットは自分が必要の部屋にいることに気が付いたのはさらに一週間が過ぎたころだった。トンクスやモリー、それにほかの不死鳥の騎士団の女性らが交代でハリエットの世話に来てくれている。体はすっかりやられてしまっていて、最も重症だったのはいつ折られたわからない足だった。
 魔法で無理やりやられたのか、左脚はすっかりおかしくなってしまっていて、歩く練習をしているときに唐突に力が抜けて、寄り添うスナッフルズ……シリウスに全体重をかけてしまった。それと同じく困ったのが、視界がちかちかするな、と思うと間もなく強烈な眠気に襲われ、意識を失うことだ。

 ずっと付き添っていた癒者が言うにはハリエットの体はあの無茶苦茶な脱出方法のせいでおかしくなってしまっているという。ただ、時間がたてば徐々に戻るだろうという見立てだった。
 やっぱりあの方法駄目じゃないか、とロンと話していた記憶を思い出すハリエットは似た方法を考案していたんだがあれは没だ、というムーディにこくこくと頷くしかない。ぜひとも、ぜひともあの無茶苦茶な回避方法は闇払いに残されず、後のハリーとロンに伝わりませんように、とそう願うばかりだ。

 ヴォルデモートとベラトリックスに拷問される記憶は毎晩のように悪夢という形で何度もハリエットを苦しめた。傍にずっと犬の姿で付き添ってくれるシリウスがいなければ……ハリエットは満足に眠ることができなかったかもしれない。
 悪夢にうなされで飛び起きたハリエットに寄り添い、どれだけ力を込めて抱きしめても文句言わず、ハリエットが寝落ちするまで傍にいる。そして眠ったハリエットを抱き上げ、シーツをかけ……目じりに残る涙を拭って。
 ハリエットの意識がない時だけアニメーガスを解くシリウスは、毎晩のようにハリエットの口から紡がれる言葉にぐっと拳を握り締めた。彼女を悪夢から救う最も早い方法は……彼女が無意識の中でしか助けを求めない相手を連れてくることだが、その相手はもうハリエットを覚えていない。ハリエットの望みで記憶を消されてしまった。

 そして、彼女は意識があるときは絶対にその言葉を口には出さないことから、シリウスにはどうすることもできない。あの時どうすればよかったのか。自分が死ぬという話を聞いたとき、それを回避するなんてことは全くなく、ハリーのために死ぬのならばと受け入れていた。
 彼女も約束してくれた。絶対に助けないでくれという自分の言葉を。なのにあの時……高揚した気分の中、ハリーの戦う姿がジェームズに重なったあの瞬間。

 思わず口走った言葉に自分でもハッとなったあの瞬間……足に何かが絡む様な感触がして、頭の中が真っ白になったと同時にどん、と体が押された。小賢しいベラトリックスと対峙していたことも、隣にあったベールにぶつかった何かが落ちないようにととっさに腕を払い……触れた感触に青ざめた。すぐ立ち上がろうとして足に絡んだ何かが、足払いの魔法によるそれに気が動転して、追っていくハリーを止めることもできなかった。
 リーマスによってすぐ立てるようになったが、子供たちを助けなければならず、追いかけることもできず、一人で戻ってきたダンブルドアに血の気が失せ、魔法省の役人に見つかる前にと犬の姿になるよう促されるがままに姿を変え、校長室で悲痛に叫ぶハリーに自分が犯した過ちを身をもって知ることとなった。


 もう少し夢を見させて、とそういっていた彼女がいつスネイプと別れたのか……ハリーが言っていた、夢から覚めたというあの時期だろうがそれにしても……。彼女はわかっていたのだ。3学年の時から。いや、それよりも前からずっと。

 だが、何も記憶まで消すことはないだろう、と思わず片手で顔を覆う。

 スニベルスに同情する気もない。だが、彼がハリエットを病院に運んだのは間違いないだろう。ぼろぼろの元恋人を見て、それを病院に運んで……知らないふりをしていても心中は穏やかではないだろう。
 そうでなければいくらダンブルドアでも記憶を消すのは難しいはずだ。もし簡単に消せるのならばジェームズはきっと奴からリリーや、人狼であるリーマスの記憶を消していた。だから……きっと動転していたのだろう。

 それほど大切にしているだろうハリエットを心配することも、目が覚めたことを喜ぶことも、体に残る傷跡に心を荒らすことも、何もかもを失ってしまった。それは……自分の選択の過ちでハリーの名付け親としての役目を果たせず、虐待され育ったハリーを知ることもできなかったからよくわかる。
 悔いても、悔いても悔やみきれない。ハリーがつらい時にそばにいなかった。だがこれは自分の過ちだ。だからまだ、それを受け入れられる。だが奴は……。

 万が一に記憶が戻った時、奴は記憶を消すように言ったハリエットをどう思うのだろうか。ハリエットが悪夢でうなされている間、ずっと助けを求めていたと知ったのならば。同情するつもりは毛頭ない。だが、それでも。

 シリウスはハリエットの少し短く切りそろえられた髪をそっと撫でる。無理やり掴まれ、引っ張られ、むしられた彼女の髪は酷く痛んでいて……ダンブルドアが渡した整髪剤を塗る前にあまりにもひどい部分を切るしかなかった。
 肩下ほどになった髪は今は薬の効果もあってさらさらとしている。ふと窓を見たシリウスは白んできた城外の風景に息を吐いた。9月になる前に外に出ていた教員は戻ってくる。その前にハリエットはホグズミードの家に移される。

 寝たきりの時にどうしても学校に行きたいと譲らなかったハリエット。彼女の……いや、彼にとってこの一年は何があったのか。自分が死んでから彼は……ハリーはどう過ごしたのか。


不安が渦巻く9月はもう目の前だった。





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