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3:翡翠色のガラス

 額に落とされる口づけに、煤で汚れているハリエットは恥ずかしそうに身動ぐが、抱きしめる男の腕は外れない。
「待ちかねていたぞ」
 スコージファイを唱えながら、スネイプは上を向いたハリエットの唇に唇を重ね、そっと啄む。煤が落ちたハリエットはそれが嬉しくて、昨日ぶりです、と笑う。
 神秘部に行く前日、薬のこともあって部屋を訪れたハリエットに、スネイプはお茶を用意してくれた。まだ複雑すぎる魔法薬は従来のもの以外作ることができていない。

「先生の自宅に来られるなんて……ドキドキしてます」
 口づけの合間に、どこか夢心地な気分で思ったままに口に出すハリエットに、スネイプは何も言わず抱き締める力を強める。古い本と古い革の臭いと、漏れ入る外気の淀んだ空気。その中に現れた澄んだ香りに、スネイプは思わずくらりと眩暈を感じた。
 両親が環境のせいか早々にいなくなる前から、この家には日の光のような存在はいなかった。それが今、腕の中にいるのは春の日差しのような愛しい彼女。自分の領域内に迷い込んだ無垢な子猫に醜い感情が震えている。

 口づけて、力が抜けきったところで古いソファーへ座った自分の膝の上に座らせる。すぐにでも安全な場所に移さなくては、と思うがどこか憂いを感じさせる緑の瞳に何かあったのではないのか……。
 そう思うと先に彼女の憂いを抱き留めたくて、膝の上に座らせたハリエットに口づける。そっと髪を撫でると、ハリエットはぎゅっとスネイプに縋りついた。

「未来を知っているのに、大きな流れを変えられないから……それに関わる人の死から目をそらしました。私……私……酷いことを……」
 細い眉を顰め、ぼろぼろと涙を流すハリエットをスネイプは抱き締め、合わせるだけでなく深く口づける。閉じた目からも涙を流し続けるハリエットを慰めるように細い背中を撫でる。

「仕方のないことだ。ハリエットの気に病むことではない」
 小さな頭を撫で、溢れ出る涙をそっと拭う。閲覧禁止の棚にある占い学の本は予言者などのことは詳しく書いてあった。だが不思議なことに予見者についての文献はまったくと言っていいほどなかった。
 本が減っているわけでもなく、元々その手の文献が少ないらしく、ある一定の年代以降の本にぽつぽつと出てくる程度だった。そもそも違うのでは、と泣いているハリエットを腕に抱き込んで考える。

 予知は予知夢などから起きることを知ることのできる能力だと書いてあった。そのために予見という言葉があったがそもそも予見は物事が起こる前に見通す……それができるものの事のはずだ。
 予知者と予見者は魔法使い界における占い学では混ざっており、夢で見るものを予知者、起きている状態で未来視するものを予見者と書いてあった。だが、予見者と言う言葉自体が予知者と混合されて、まるで無理やりその呼び方を定着させようとして、ちぐはぐになっている印象を受ける。
 では、ハリエットの場合はどうなのか。ようやく泣き止んでスネイプに縋りつくハリエットの額に口づけを落とす。彼女は未来を知っている。それも、かなり鮮明なものだ。
 もしかしたら……予見者は以前は違う名前で呼ばれており、ある時代からそれを隠すために近い能力にわざと混ぜ込んだのではないのか。だとすると、以前はどのようなものなのか。予言と異なるのならばその手の本にも載っていないのはわかる。では、どういうものなのか……。

「落ち着いたかね」
 神秘部にわざわざ行くのだから、きっと彼女は自分が思う以上に何かしらの力を抱えている。あと少しでわかりそうなのに、もどかしいスネイプは助けを求めるハリエットの髪を撫で、そっと泣きはらした目元に口づける。

 落ち着いたのか、もう涙は流していなかったが目の回りが赤くなり、少し痛々しい。腫れに効く薬を呼び寄せると、それをハリエットの顔に薄く塗る。すぐに効果を出すと下がった眉と愁いを帯びた瞳以外に泣いていた証拠は消えた。

「その者がどういうものか……私にはわからないが、ハリエットがその死を悼むその気持ちだけでも十分なはずだ。ハリエット……人の生死はそう簡単には覆らないし、一人の手でそれの重さを支えられるものでもない。それに……」
 この小さな両手では多くを望むことはできないだろう。かさついた自分の手より小さい、少女の華奢な手を取るスネイプはそれをやさしく握りしめ、指先に口づけを落とす。


 彼女は知らないのだろうか。この手のほうがよほど汚れているという事を。そう考えて掌にも口づける。クィレルを殺した彼女だが、それはやむおえないことであった。事故のようなものと、自ら闇に浸ったもの……。
 どちらが汚れているかなど、誰の眼からも明らかだ。

「それに、この話を聞いて、私はハリエットがそのものを助けようとし、呪いを受けることにならなくてよかったと、安堵してしまった。君ほどに純粋で無垢な……綺麗な心を持った者はいない。だから、そう自分を卑下することはない」
 自分のほうが人間としてもより悪い、と答えるスネイプにハリエットははっとして……スネイプの首元に縋りつく。彼女にとって、スネイプは穢れのない立派な人だ。
 違う、知ってる、違うんだ、と首を振る。先生が思うほど自分は高潔な人間でも、純粋な人間でもない。

 今年、自分は二人の人間を見殺しにする。バーサと出会ってしまったは偶然だが、クラウチは……助けない。バーサと違って、彼の死は……運命の大河には関係のない、回避可能な死だ。
 だけれども、呪いの回数を彼で使うことは考えていない。ヘドウィグとドビー以下の命、何て思っているわけではない。だけど、だけども……。

 再び涙を流し始めたハリエットにスネイプは黙って抱きしめる。ピーターが逃げてから、彼女の持つ、未来への干渉による呪いを使う時が来たのではないか、そう思えてならない。そして……恐ろしいことに彼女はその使う先を決めている気がする。
 だから、彼女は目をそらさざるをえなかった。いったい何度呪いを使うのかわからない。彼女は限界までその呪いを受けてなお未来を変えようとしてしまいそうな危うい雰囲気も感じて、言いようのない不安に駆られる。

 ハリエットはなんでこんなに涙が出るんだ、とかつてはどんな理不尽であろうと涙を流さなかったのに、なんで、と戸惑っていた。焦れば焦るほどに涙は止まらず、情緒はぐちゃぐちゃだ。
 今のハリーだって涙を流してなんかない。なのに、同じハリーなのになんで、と胸を締め付ける痛みが理解できずにいる。そっと背中に何かが触れたと感じると同時に、ハリエットは意識を失った。






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