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開かれた箱は壊れていて、中からハリー・ポッターの名前が書いてある紙がはみ出ている。
紙は手を伸ばすと消えて、必要の部屋をそっと出ていく。
透明マントを羽織り歩いていくと、どこからか聞こえる声に目を伏せる。
嘘つきだと囁かれるいつもの日常。
だけど、ここは自分を知る人が居る世界。
自分が存在する世界。
猫の世界はとても怖かった。
見えない自分を蹴り飛ばす人、気が付かず踏む人。
お腹がすいても怪我をしてもだれも見向きもしてくれない。
最後の力を振り絞って必要の部屋に行ったのに、その部屋ですら自分の存在を感知しなかった。
ダンブルドアでさえ…完全な視認はできなかった。
唯一…なぜか唯一彼だけが自分を見つけてけがを直してくれた。
透明マントを脱ぎ、窓からそっと中庭をみる。廊下を歩く黒い影。
後姿を見ていたハリーは知らず唇に手を当てていたことに気が付いたが、嫌な気はしなかった。
あの世界は作られた世界。
本当に自分が消えれば今の時間と合わさって混ざるはずのかりそめの世界。
だから誰もあの世界を覚えてはいない。
使用者の自分を除いて。
あの腕のなかは…とても安心できた。
もう二度とあの安らぎの世界は来ないことだけが元に戻ったことで残念なことだった。
闇の帝王がよみがえったのはうそだということでひそひそと陰口を言われ、遠巻きにされ…いつもの日常だとこらえるハリーだが、一つだけ心に突き刺さる。
スネイプの変わらない憎しみを携えた態度と瞳。
わかっていたはずなのに、あの腕のやさしさがもし本当ならば…もう二度とないあのやさしさを得られるのであれば、あのまま猫でいてもよかったかもしれない。
名前を付けてもらい、存在もハリーではなくただの猫として固定されれば…。
あの人は優しく毛並みを整えてくれただろう。
はっと目を見開くハリーは無意識にやってきた必要の部屋…小さい頃から見慣れたあの物置部屋の扉を前にしていた。
扉がなぜこの形になったかわからない。
だけど、この先はきっと今の自分が求める場所だ。
戸を開くと、そこは闇が広がっていた。
この中に入れば…あの世界とは違って今度こそ完全に…。
導かれるかのように足を踏み出すハリーは強い力で後ろに引かれ、扉から、闇から遠ざけられる。
力強い腕に抱きかかえられ、別の闇に覆い隠された。
戸が閉まり、必要の部屋が消えたが視界を闇に阻まれ、ハリーは気が付かずにいた。
「ポッター、お前は誰だ。」
深く響く声にびくりと体を揺らすハリーは小さな声で答える。
「ハリー・ポッター…です…。」
「どんな、ハリー・ポッターかね?黒猫かね?」
か細い声で名乗るハリーに重ねるように再び尋ねられる。
「ただの…グリフィンドール5年生の…ハリー・ポッターです…。」
震えて涙を流しながら答えるハリーはなぜこの問いをするのか、なぜ猫を知っているのか…様々疑問符が浮かんだが、力強い腕に心がほぐれる。
自分を抱きしめる腕に手を重ね、しがみつく。
「せ、先生の…腕の中にいるのは…誰ですか?」
薬品のにおいがする闇に今度はハリーが問いかける。
「無鉄砲でトラブルばかり呼び寄せて…世話のかかる目の離せない…ただの少年…ハリー・ポッターだ。」
闇が動いて、開かれると直ぐ近くにスネイプの顔があり、涙をこぼす目元に口づけられ、眼を閉じた隙に少しかさついた唇が柔らかな唇に重なる。
誰もいない廊下。
ほかに音のない静かな場所で小さな濡れた音が二人の間にだけ零れる。
身をゆだねたハリーを抱きしめ、ローブの中に包むとスネイプはようやくその唇を放した。
「なんで猫だったことを…。」
「おそらくはあの世界が消えるその場にいたからだろう。」
抱きしめてハリーがいることを確かめるように手をまわし、存在を確かめる。
再び魔法薬の香りがする闇に包まれ、ハリーはそっと目を閉じた。
あれからどうやって移動したのかはハリーは覚えていなかったし、どうでもいいことだった。
生まれたままの姿で抱きしめあい、口づけを交わす。
触れ合えることに喜びを感じ、教師と生徒でもなく、憎しみ会う二人でもなく、ただ、お互いの存在を確かめるためだけに絡み合い、疲れ切って気絶するように、互いを放さないようきつく抱きしめあって眠りに落ちる。
ただのハリーとして接した、ただのスネイプにハリーは抱きしめられながら不思議だとくすくすと笑う。
咎めるように首筋に口づけられ、痕を残されると熱いため息が零れ落ちる。
ハリーは心が、体がさみしくなるとスネイプの部屋を訪れて、先生とも、ポッターとも呼び合わず、互いの心にある凹凸を埋めるように抱き合った。
だから、スネイプはダンブルドアを殺し、ホグワーツを去った時、ハリーはただのハリーでいられる場所が遠ざかってしまったことがすっと何抵抗なく、その必要性を実感することができた。
今は英雄のハリー・ポッターでなければならないのだと、心を奮い起こし、吹けばうっすらと見える気がするレンガ道をたどってただ歩き続ける。
闇の陣営はヴォルデモートが復活するのに血や骨、肉をつかったことから例外なく遺体は燃やされた。
ハリーは特別に許可された場所で静かに炎が煌々と光り、ただのハリーの居場所だった闇を消していくのを黙って見つめていた。
愛しているとも、何も特別な言葉は交わしていないし、ハリー自身も炎が小さくなっていくのを見てもその感情はわかないことは理解していた。
ただのハリーである居場所を欲したように、彼もまたただの自分でいられる場所が欲しかったのだと、記憶から察していた。
だから、炎が最後の瞬きを残して消えた瞬間、頬が濡れていることは理解できなかったことだし、意味も分からなかった。
ただ、炎に目が乾いたのかもしれないと、いまさらながらほとんど瞬きをしていなかったことに気が付く。
どうしてかなんて、それもわからない。
まるで自分の中にあの箱が入っているかのようだと、そっと胸に手を当てた。
ジニーと結婚し、子供が生まれ、闇払いになったハリーは書斎で一人になると黒い箱を取り出した。
かつて使ったあの自分がいない世界を見せてくれた箱の模造品だ。
あの箱は壊れてしまった。
その箱に何が入っているか…箱の中身を当てなければ開かない箱の中身をハリーは知っていて、ハリーは知らなかった。
その名前を付けた瞬間、箱の中身がなんであるか定まってしまう。
あの世界で猫に固定されかけてしまうように。
“私は誰?”
そう書かれている蓋をそっとなぞり、なんだろうかと首をかしげる。
陰険で意地悪で、冷たいあの人か。
暖かくてほっとできるあの人か。
母を愛し続けた勇気ある人か。
自分を抱き、愛したあの人か。
どれでもあるようで、どれでも彼を言い表すには何かが足りないと、ずっと答えは出ない。
それでもこの箱を手に取っている間は英雄でも、父親でも、夫でも…闇払いでもなく、あの頃と同じようにただのハリー・ポッターになれる…なってしまうあの優しい空間に包まれる気がしてそっと微笑んだ。
闇の陣営たちの墓はない。
あばかれて、悪用されないためにも隠蔽され、破棄された。
そっと箱をなぞるハリーは遠くで子供たちの声を聞きながら手紙を残す。
丁寧に、丁寧に自分で用意した石は時間がたつとかけられた魔法が徐々に解けて後ろに刻まれた文字と重なって見えなくなる。
自分の軌跡を残したくないのと、彼の場所を作りたくて…重ねて作った石。
そろそろただのハリー・ポッターに戻っていいよね、と目を閉じる。
光の中でそっと黒い箱の中身を呼ぶ。
割れた箱を踏む様に、あきれた顔で立つ彼に飛びつきあの魔法薬の匂いのする闇に身を寄せる。
「我が輩をこんな箱に閉じ込める性悪な爺は誰かね?」
「全部置いてきた、ただのハリーです。あなたの腕にいるのは誰ですか?」
「時には猫になり、自由気ままに人生を謳歌しきったバカなハリー・ポッターだ。」
まったくとため息をつくスネイプに抱きしめられ、ふと互いの手の中に箱があることに気が付いた。
開けてしまった時、何が出てくるのかなんて誰もわかりようもない。
形の見えるものであるのかもわからない。
ただ、ハリーとスネイプは互いの箱の中身なんてわざわざ空ける必要性もない、とあるきだした。
もしかしたらこの箱の中身は…今までがまた幻で、この箱の中身が本当の世界かもしれない、と箱をなでる。
開けるまで中身がわからない箱は、開けないほうが面白いのかもしれないと、白い世界に置いていく。
“私は誰?”
二人の箱にはきっと伝えてない言葉が入っているのかもしれない。
~fin
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